第61回 床矯正を3年・・・悲惨な結末④~治療終了~
大変遅くなりましたが、<床矯正を3年・・・悲惨な結末③~治療開始~>の続きの話をしてみたいと思います。
このページだけで、写真が50枚にもなりました。時間のある時に、ゆっくりご覧頂ければと思います。
少し復習をしておきます。患者さんは、歯科医です。遠方から、当クリニックへわざわざ毎月来院されていました。
彼は、自分と同じような経緯をたどる不幸な方が1人でも減ることを強く願っていました。
当クリニック来院前に、自身の歯列不正(上下叢生)に対し、”床装置”と呼ばれる矯正装置で約3年自分自身で治療していました。が、治療の終わりが見えないどころか、治療前より歯列、咬合とも悪化し、どうしたらいいかわからない?とのことで、迷い込んで来られた方です。
当クリニック来院までの経緯や治療開始までのいきさつについては、歯並びの話の<第40回床矯正を3年・・・悲惨な結末①>、<第41回 床矯正を3年・・・悲惨な結末②>や<第47回 床矯正を3年・・・悲惨な結末③~治療開始~>をご覧下さい。
今回のケースで、私自身、とても多くのことを学ばさせて頂きました。
一言でいいますと、どんな分野の治療を行う場合でも、”前提”で行っては悲惨な結果になることがあります。”念頭”において治療を行うことは”こだわり”の一つの形であり、大切なことだが、”前提”とは全く違うということです。
「床装置」を”前提”での治療、つまり床装置で全ての歯列不正を治そうとすると、必ず悲惨な症例を作ってしまいます。
「床装置」による治療が得意で、”念頭”において治療計画をかけたものの、不向きな症例なので、他の装置で治療を行うというスタンスであれば全く問題ないです。
「床装置」の長所、短所、できること、できないことがわかった上で使用すれば、トラブルにはなりません。そのためには、いろいろな矯正装置を使いこなせるスキルが必要ということです。
床装置と同じように、最近、「非抜歯治療」という一般の方には、とても聞こえの良いキャッチコピーを売りにしている歯科医院がよく目に付きます。
しかし、今お話しましたように、「非抜歯」を”前提”に治療すると、必ず不幸な患者さんを何人かに1人つくる結果になります。
私を含め、全ての歯科医は、「非抜歯」を”念頭”に最初治療計画を立てます。しかしシュミレーションしてみたものの、思わしくない予測しか立たない場合は、抜歯矯正もやむ終えないというプランになるのです。
「前提」という決め付けでスタートすると、必ず落とし穴が」待っています。
前置きが長くなってしまいました。
下記のケースは、「床装置」による”非抜歯拡大”の矯正治療の禁忌症(タブー)と考えられるケースでした。
図A(右側面観)、図B(左側面観)は当クリニック初診時です。
右側は、1点、左側は2点しか上下の歯牙が咬合しておらず、非常に不安定な咬み合わせで、食生活にも大きな支障をきたしていました。
図C,Dが治療開始直後です。床装置による拡大・挺出(歯肉から出る方向)による治療が行われていたため、全ての歯牙がダメージを受け、動揺が認められました。特に下顎前歯部へは特別な配慮が必要でした。
挺出力を防止し、圧下(歯肉の中へ押し込む)をメインでの治療を行うため、図E、Fの黄色丸のミニ・インプラントを多用しました。
図Gは、左下大臼歯部です。図Hのように下方向への力(圧下力)によって、上下の咬合平面を平坦化しならが咬合の緊密化を図っていきました。
図Iは左上の口蓋側(裏側)です。2本のミニ・インプラントに固定源(動かない場所)を求め、圧下力(歯茎の中へ押し込む力)を加えていきました。
図Jが図Iから3ヵ月後です。ミニ・インプラントと歯牙との距離が縮まっていることから、大臼歯が圧下したのがおわかり頂けると思います。
図K、Lが治療開始10ヶ月目です。図C、Dに比べると、随分上下の歯牙が咬み合ってきました。ローフォース(弱い力)をとにかく心掛けました。通常の成人矯正の2倍の時間を要しています。強い力による歯牙へのダメージを抑えるためゆっくり歯牙移動を行いました。黄色丸のミニ・インプラントを有効に活用できた結果です。
図M、Nのように、10ヶ月目からはさらにインプラントを上下ともに追加し、さらなる咬合の緊密化を図っていきました。
通法では、上下の歯牙をしっかり咬合させるために、治療の後半で、上下の歯牙にゴムをかけることをが頻繁に行われるのですが、今回のケースは、挺出力は禁物でしたので、非常に苦労しました。
図O、P治療開始14ヶ月目です。パット見は、かなり良い感じになってきました。図A、Bの初診時と比較して頂ければ、上下の間に隙間がほとんど見られなず、咬合も安定してきました。食事もおいしく食べれるようになったと、感謝!感謝!を毎回述べられていた時期です。
図O、Pの状態で装置を撤去してもよかったのですが、患者さんは歯科医です。歯列、咬合がかなり改善し、良くなってくると、さらなる細かい要望を訴えられるようになりました。詳細については、後述します。
A
B
C
D
E
F
G
H
I
J
K
L
M
N
O
P
図A、Bから図O、Pへの変化を、顎内だけで行うのが如何に難易度が高いかは、矯正治療を本気で手がけた経験がある方ならおわかり頂けるはずです。
顎骨の成長が終了した成人で、スペース不足量が大きいケースを非抜歯、拡大で無理やり歯列を並べようとしても、頬側へフレアして開咬になります。顎間ゴムを何年かけても絶対治りません。抜歯して再治療するか、今回のように臼歯部を中心とした全歯牙の圧下で対応してみる、という選択肢になります。
このページの最初でお話したように、「床矯正」とか「非抜歯」という”前提”で治療を始めると、とても大きな代償を患者さんに背負わせてしまい、悲惨な結果を招くことがあります。
上下の咬合面観の変化を見てみましょう。
左側縦欄が下顎、右側縦欄が上顎です。
図Qの初診時の下顎では、両側の犬歯が回転(捻転という)しています。床装置では捻転は治せません。前歯部分(6前歯)に隙間も開いています。
図Rの上顎においては、軽度叢生(乱杭歯)が認められます。また、臼歯部(奥歯)が頬側に大きく傾斜しています。無理やり内側から外側へ床装置で押したためです。開咬の原因の一端です。
図S→図U→図Wのように、犬歯の捻転が徐々に改善され、歯列弓の形態が理想といわれる楕円形にだんだん変化しています。図Wが治療開始10ヵ月後です。
一方上顎についての変化ですが、図T→図V→図Xのように、6前歯の叢生が少しずつ改善されていることと、ミニ・インプラントによる圧下やトルキング(歯根を動かす力)、角ワイヤーによる仕上げ的なトルクも補助的な因子として働き、図Xでは、半円形の歯列弓に、また、フレアアウトも改善されました。
治療前の問題点をリストアップし、目指すゴール、治療法にぶれがなければ、60点以上の結果になります。
Q
R
S
T
U
V
W
X
さらに別の角度(正面観、口元のアップ)から検証して見ましょう。
図①、②が初診時です。図①において、両側犬歯付近を中心に上下の歯牙が全く咬みあっていない開咬になっています。図②でおわかりのように、全く前歯が当たっていないので、食べ物を噛み切ることがでない状態でした。
図③、④が治療開始直後の状態です。年齢的なこと、また歯周病がある程度進行していたため、極細(.010inch)のワイヤーでスタートしました。通常.014inchから始めるのが一般的ですが、ゆっくりと非常に弱い矯正力で治療することを心掛けました。弱い力(ローフォース)に常に意識しながらの治療のため、、ステンレス製のワイヤーは治療終了まで使用しませんでした。ニッケルチタン製のワイヤーでも、このケースは、十分トルキング(歯根の移動)を行うことができました。
図⑤、⑥が治療開始8ヵ月後です。下顎犬歯の捻転(回転)がかなり是正され、咬合平面もある程度揃ってきました。もちろんミニ・インプラントを利用したことにより、臼歯部の圧下が起こり、咬合高径が低下したことにより、少しずつ上下の歯牙が咬みあってきたのです。顎間(上下の歯牙)への引き合いの力は、最後まで全く利用しませんでした。
図⑦、⑧が治療開始12ヶ月目です。図⑤、⑥に比べ、さらに緊密な咬合になっきました。ブラケットは、ティップ・エッジブラケットと呼ばれているローフォース、ローフリクションを特徴とする今回のようなケースには打ってつけのブレースを使用しています。各歯牙の歯軸も徐々にではありますが、適正化されつつあります。
図⑨、⑩が治療開始14ヶ月目です。ぱっと見は、ほぼ終了してもいいかな?と思われるレベルまで達しました。開咬の治療で頻用される顎間へのゴムなどのパーツを使用しても良いケースであれば、たぶん半分の治療期間で終了していたはずです。
ただ、このケースは、全ての歯牙を圧下させて咬合を緊密にしていかなければいけなかったので、とても難易度が高く、また歯周病その他への配慮も必要で、各ステップを慎重にせざるを得ませんでした。
図⑨、⑩の段階で、動的治療を終了し保定装置(後戻り防止装置)に置き換えることも考えていましたが、このケースの患者さんは歯科医でした。”前方、側方運動時にどうもしっくりこない、干渉しているところが何箇所かある。それから最後臼歯の咬合が甘い・・・”など細かい指摘をされるようになりました。
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
一言でいいますと、”最終的に咬合様式をどのように仕上げるつもりなの?アンテリアガイダンスが少しきつい感じだけどどうするの?など専門的なやりとりが行われるようになりました。
”もちろん時間さえかければさらに良い状態にすることは可能です”、と返答しました。”ただ、ブラケットによる治療の限界があります。次のステップに行きましょう”ということになりました。
左縦欄の図⑪~図Ⅰが治療前、右縦欄の図⑫~図Ⅱが装置撤去後です。
図⑪の開咬で頬側にフレアした状態が図⑫のように大きく改善されました。
前歯、特に下顎の前歯の歯周病も悪化することなく装置撤去までたどり着くことができ、ほっとした瞬間でした。
図⑬(右側面)→図⑭への変化ですが、下顎犬歯の捻転の改善、1歯対2歯の咬合関係がしっかり確立されました。歯軸も適正化され、咬合平面の乱れも解消されました。
図⑮(左側面観)→図⑯への変化も右側と同様で、全歯牙の歯軸の改善、咬合の緊密化がほぼ完了しました。臼歯部の圧下により、挺出・傾斜することなくゆっくりですが、確実に歯牙移動が行われました。
図⑰(口元のアップ)→図⑱の変化も顕著で、開咬の改善は当然として、上下の歯牙の唇側への傾斜も適正化されました。一番心配していた下顎前歯部の動揺、歯槽骨の吸収等の矯正による副作用は惹起されませんでした。
図⑲(上顎咬合面)→図⑳へは、叢生の改善と同時に臼歯部が頬側へ傾斜していたのが、ミニ・インプラントを使用したことにより、大きく改善されました。
図Ⅰ(下顎咬合面観)→図Ⅱにおいても、前歯の隙間、犬歯の捻転、臼歯部の頬側、遠心傾斜の整直なのど改善が行われました。
ところが前述しましたように、患者さんである歯科医から、”咬合様式の微妙な是正や下顎運動時の干渉部の対策”を迫られることとなりました。
そこで、図Ⅲ、ⅣのようなTooth positioner(トゥース・ポジショナー)と呼ばれている可綴式の装置で対応することにしました。理想的な歯牙の位置を咬合器上で再現し、その歯列に合ったポジショナーを作製します。
若干軟らかい素材でできていて、咬みこみトレーニング(咀嚼訓練)をすることにより、事前に再配列(セットアップ)した機能的、生理的な咬合様式、下顎運動が行える歯牙の位置に少しずつ、確実に移動していきます。
図Ⅴ、Ⅵが口腔内に装着したところです。トレーニングは、一日30分以上は必要です。装着時は食事はもちろんのことしゃべることもできません。ですから、外出時は別の保定装置を使用します。
しっかり使用して頂ければ、非常に有効な装置です。ブラケット治療では難しい仕上げの仕上げの段階で使用すれば、細かな修正が可能です。
今回のケースは、2個のポジショナーを使用したことにより、ご本人も非常に満足のいく結果が得られました。
⑪
⑫
⑬
⑭
⑮
⑯
⑰
⑱
⑲
⑳
Ⅰ
Ⅱ
Ⅲ
Ⅳ
Ⅴ
Ⅵ
今回のリカバリーケースを総括してみたいと思います。
診断に始まり、プラニングを行う際、どのような治療が可能か?本当に本当に悩みました。私のスキルで治療できるものか???
ゴールの精度の高さも求められました。患者さんが歯科医であることから、言葉が適切でないかもしれませんが、絶対ごまかしはきかないし、高品質な結果を出すことが絶対条件でした。難しい場面もありましたが、結果は良好で、患者さんの満足は十二分に得ることができたことに、ほっとしています。
話が変わりますが、現在でも、ワイヤーを使用した矯正治療に抵抗感、アレルギーを持った一般GPが多いのは本当に残念と、最近特に感じます。
ホームドクターであれば誰もが当たり前のように毎日行う虫歯治療や歯周病治療、抜歯などの外科処置と同じように、矯正治療をご自身の医院で日々の臨床に取り入れてほしいと思います。診療の幅がグーンと広がります。
他分野とのコンビネーション的治療プランがご自身で立てれる、そして行えるようになることにより、矯正学単科では発想すらできないバリエーションに富んだ質の高い”包括的治療”が行えます。
言い方を替えれば、矯正専門医に任せた時点で、ご自身の患者さんではなくなります。矯正の勉強もしなくなります。
私は、”矯正という分野を特別な位置に置いている歯科医が多すぎだ”!と常々思っています。特別な設備がいるわけではないのです。
「患者さん本意」、患者さんの立場になって考えれば、治療の質が低下しない、という前提に立てば、”1歯科医、あるいは1診療所で全ての治療を行われる”ことが理想で、良い治療が行えるはずです。
すばらしい矯正治療を行っている一般GPを何人か知っています。平均的な矯正専門医のレベルよりもはるか上の治療を行っています。もちろん日々の学習の賜物と思いますが、一番の理由は、矯正の分野以外の知識が豊富だから、いろいろな発想、プランを考えれるからだと思います。
つい先日会う機会があったのですが、”保存、補綴、外科、などと同等な位置で矯正を置いているし、知識、スキルも同じレベルで持ち合わせていることが大事だ”と私の尊敬するGPの一人は言っていました。その通りだと感じました。
患者さんから日々多くのことを教えられます。私の学習の原点は診療から!です。毎日患者さんと接すること、学べることを、楽しくもあり、やりがいを感じています。