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第56回 ”Ideal” and ”Reality”

毎日の診療は、ある意味Ideal(理想)Reality(現実)という永遠に答えがでることのない命題と常に向き合っていかなければならない葛藤の連続である。

理想的な治療、当医院で行える最良の治療を全ての方に提供したい気持ちがあっても、それを阻む要因がいくつも立ちはだかっているのが現実である。
 また、規格化された商品販売するのとは違うすべてがオーダーメイドで、しかも超アナログな世界を扱っているの医療分野では、実際には、何通りもの治療法が存在する。

歯科医が考える理想的な治療法が、患者さんにとって最善とは限らない。なぜなら、歯科医の提案が、患者さんにとっては、到底不可能な非現実的な治療法の提案である場合も多く見受けられるからである。

医療の場合、”分業化”と”専門性の追求”によって発展してきた経緯があるのは事実である。しかし、現場での診断に本当に必要なのは、多岐にわたる分業化された専門分野の全ての知識が必要であると同時に、最近特に言われるようになってきた”全人的治療”という言葉に代表される”人を診る”のではなく、”人を看る”という感覚、そして、”共感”することの大切さが叫ばれている。

いきなり、抽象的な表現を羅列しましたが、要するに、本当に受けたい治療というのは、患者さん自身の頭の中に治療前にほとんどイメージとして決定している場合が大半ということである。歯科医は、それを上手く導き出す手助けをする役目を担っているだけである。ある治療法へ誘導する手法を行っても、本人にとっては、不本意であり、後々トラブルになる危険性を秘めている。

当医院で行われた最近の症例で具体的にご紹介してみたいと思います。

図Aの方は、”口臭”を主訴に来院されました。”1ヶ月後に広島に転勤になるから、それまでにできることだけしてほしい”と言われました。

図Aが初診の状態です。歯石が多量に沈着していて、歯茎が全体に赤く腫れあがっている状態でした。一見して、重度の”歯周病”と診断がつきました。

図Bが治療開始2週間後、図C図D(上顎咬合面観)が1ヶ月後の転医直前の状態です。
歯周病が、”生活習慣病”の範疇に属していることが認知されて久しく、一ヶ月で完治させることは、事実上不可能です。
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また、この患者さんの場合、歯周ポケットが全顎的に5㎜以上ある中程度~重度の歯周病でしたので、歯石除去やブラッシング指導と言った初期治療のみで、メインテナンスに移行できるケースではありませんでした。ヘビースモーカーで生活習慣の問題点も多岐に渡っていたため、一朝一夕にいくはずもないケースでした。

図Dのように、多数の歯牙の裏側をワイヤーで固定する方法は、本来暫間的な処置です。今後、継続的に管理できない方に行うべきではありません。この処置に異論を唱える歯科医が大半ではないでしょうか?軽度叢生(乱杭歯)でもあります。自浄性(清掃性)という観点からも疑問符です。

ではなぜ図Dのような処置を行ったのか?答えは簡単です。患者さんの要望が非常に強かったからです。両側の中切歯は、歯周ポケットが全周に渡り10㎜以上あり、教科書的には抜歯の適応です。一ヶ月で転医が決まっている方に、抜歯して仮歯にするか、図Dのような状態で転医先を紹介するか、という選択肢になります。

冒頭でお話しましたが、患者さんは歯科医が考える100%の治療を望んでいる場合は、”疎”だと考えます。日々の診療は、患者さんの治療に対する考え方と歯科医の提案の間での擦り合わせの繰り返しです。

もし、図Aの患者さんへ私が行える最高の治療をするとしたら、歯周外科、矯正、インプラントを絡めたアプローチになるでしょう。もちろん、治療期間、費用の問題が発生します。ここで言う最高の治療とは、現状での審美的、機能的な改善と、経年的な予後の安定が見込める治療ということになります。

次の症例ですが、図E~Iが術前になります。主訴は、”上下の正中及び何箇所かの前歯にある隙間をなくして欲しい”という事でした。とにかく”安い治療費で治療してほしい”と何度もおっしゃっていました。

図Eのように上下の真ん中にある隙間が大きいため、補綴物(被せ)をいきなり作製しても、審美的に良好な結果は得られないことは明らかでした。

図Eのように、上顎の正中に約3㎜、下顎には約4㎜のスペースが存在していました。図Fが上顎咬合面観で右上5番と両側の2番が欠損していました。、図Gが下顎咬合面観です。右下5番と両側2番が欠損歯でした。

図Hが右側面観で、図Iが左側面観です。上下合わせて通常より6本歯牙が少ないことから上下ともに、空隙歯列の様相を呈していました。
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できるだけ簡単な装置で!短期間に!そして費用をかけずに!と言うことで、患者さんと相談の結果、妥協案ではありますが、図Jのような装置でスペースを一箇所に集めることをしました。

上顎は、4前歯だけブレースを装着して、図J黄色矢印の方向に力を加えて中切歯を真ん中に寄せました。図Mが中切歯間のスペースが閉じたところです。

下顎は正中のスペースが大きかったため、中切歯を正中に寄せるのではなく、両側の犬歯方向へ力をかけました。図J赤矢印の方向へ、床装置をアンカーとしてゴムで遠心(後方)へ動かしました。図Kが上顎へ装置を装着直後、図Lは、下顎の装置装着状態で、ほぼ中切歯の遠心移動が終了したところです。

3ヵ月後が図M~Oになります。上顎の歯間部のスペースは、図N黄色矢印の2箇所(側切歯相当部位)に集めました。下顎については、図O黄緑矢印の正中部分(両側中切歯相当部位)に集めました。

その後、図P~Rのように、補綴(被せ)にて最終処置を行いました。健保での治療を希望されていましたので、セラミックでの修復処置は行いませんでした。
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この一連の処置は、歯科医サイドからのみ考察すれば、ベストではないし、ベターでもない、妥協だらけの治療と言えます。

歯の移動を行うのなら、なぜ矯正治療のみで治療しなかったのか?あるいは、審美障害が主訴なのに、経年的に変色する材料でなぜ最終補綴を行ったのか?など説明のつかない治療ではないか!とお叱りの声が聞こえてきそうです・・・。

良い訳になるかもしれませんが、”患者さん本意”というのが当医院のスタンスです。もちろん、矯正治療のみで治療が可能であること、歯牙の切削はできれば避けるべきであること、補綴物の差異が今後に影響することについては、治療前に十分すぎるくらい説明しています。

今回の治療コースは、最終的には、患者さんが決定しています。私たち歯科医は、芸術品を作る作業を毎日しているわけではありませんから、患者さんの満足度が得られてこそ、治療が成功したと言えるのではないでしょうか。

毎日、治療に対していろいろな要望を持った方が相談に来られます。時には、医療人としてできれば避けたい治療を懇願される方もおられます。
次の方は、治療を行う上でスタンダードな考え方として定着したMI(ミニマム・インターべション)からは逆行する治療を行った症例です。
敢えて掲載する理由としては、一言で言えば、このページのタイトル(Ideal vs Reality)に尽きます。プロフェッショナルとしての誇りを持った、自身の納得のいく仕事をしたいと思えば思うほど、現実とのギャップ、葛藤を感じます。罪悪感に苛まれることもしばしばです。

次の症例の方も、前例と同じように、来院時に既に治療法への優先順位をご自身で決めておられました。
短期間(一ヶ月以内)に、そして正中の隙間と、反対咬合(受け口)だけ治れば良い!と言われていました。

図S~Wが治療前の状態です。正面観の図Sにおいて、上顎の正中に約1㎜のスペースがありました。図T(右側面観)、図U(左側面観)より、顕著な骨格性の反対咬合というのがおわかり頂けると思います。歯肉の状態は良いとは言えない状態でした。

一般的に、このような症例の場合、歯の移動による矯正治療が理想的な方法であるとだれにでも想像がつきます。図Vのように、マイナスの被蓋がそれほど大きくないこと、図Wのように側貌のConcaveも軽度であることから、歯牙の移動で十分満足する結果が得られると想像がつきます。
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しかし、患者さんは、1年以上かかる治療法など、全く念頭にありませんでした。
歯の移動だけで1ヶ月で治療を終了することは不可能です。

私としては、不本意というか、あまり良い治療法とは思えない”補綴矯正”という選択肢を提案させて頂きました。健全歯の切削を伴う”補綴矯正”にはいつも非常に抵抗感があります。

治療後が図Ⅰ~Ⅵです。歯牙の傾きを上の前歯は前方に、下の前歯は内側に傾けることによって、咬合関係を正常にしました。図Ⅰのように正常被蓋にすることにより、図Wのように上唇の凹んだ感じが図Ⅱのようにバランスのとれた上下唇になりました。

オールセラミックにて修復することにより、図Ⅲ(右側側面)、図Ⅳ(左側側面)、図Ⅴ(上顎咬合面)、図Ⅵ(下顎咬合面)のように、それなりの仕上がりにはなりました。

術後の仕上がりに、患者さんはとても満足されていました。が、前述しましたように、私としては、健全歯は触りたくなかった、というのが正直な気持ちです。

患者さん毎に、口腔内の処置に対する考え方、価値観、ライフスタイルや人生観をも加味した上での思いいれなど、治療法を決定する上での多種多様なファクターが存在しています。
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患者本位という名の下、決定権を患者さんに委ねてしまい、良質とはいえない治療を行うのは如何なものか?と最近特に感じることが多くなりました。保険で良質な治療を受けることも、提供することにも、限界があります。

ある程度、良質な治療法へ誘導することが、本当の意味での患者さん本意であり患者さんのための治療といえるのではないか? と自問自答しています。

”理想”と”現実”の狭間の中で、妥協点を探る作業が毎日、毎日何度も繰り替えされています。
せめて、10年後くらいの予後の安定を見込める治療法の提案を積極的にするべきなのだろうか?とも感じています。

患者本位とは何ぞや?スタッフの意見も聞き、真剣に考える時期が来ている、と強く感じる今日この頃です。